ナポレオン
1807年、スペインのカルロス4世とナポレオンの間で、フォンテンブロー条約が成立し、フランス軍がポルトガルを攻撃するためにスペインに侵入することが認められた。しかしながら、フランス側の真の目的はイベリア半島全体を征服することにあった。
1808年2月10日、デューヘスン将軍率いる軍隊はカタロニアに侵入した。3日後、バルセロナを侵略し、ラ・シータデルとモンジョイークの要塞は攻め落とされた。アンプルダ地方のサン・ファラン城はデューへスン将軍の残した少数の駐屯兵に簡単に占領されてしまった。カルマンソ城も差し押さえられた。城の一部は、建て直され、武器、兵器の倉庫として使われた。
ナポレオンの思いのまま、アランフェスの反乱はなくなり、スペイン王国はバエーオンを放棄しなくてはいけなくなった。フランス軍に対抗するため、武装兵の人数は増えた。カタロニアでは、イアイダとトルトサで反乱が始まり、1808年、6月6日と16日、フランスはエル ブルックで2度も敗北している。ギロナ(町の名前)は2度の包囲攻撃に耐え、一方、フランスはいろいろな国に敗北していた。ナポレオン自身も戦争に参加する決意をした。12月7日にはロージズ町をゴービオン・セイント・シラ将軍率いる軍隊に引き渡さなくてはいけなくなった。ギロナは3度目の包囲攻撃を受け悪戦苦闘したが、7ヶ月目にして、町をナポレオンに渡さなくてはならなくなった。
ソーシェット将軍はイアイダとマキネンサとトルトサ(1810)を差し押さえ、1811年7月8日、陸軍元帥に昇進した。1812年1月26日、タラゴナも敗北し、フランスはカタロニアと併合した。国はフランスのモデルに従って、地域ごとに分かれ、管理された。その間、ソーシェットはバレンシアを占領するための方法をあたためていた。
以降、フランスの軍は定期的にロシアの戦線に送られたので、かなり力を失い始めた。ただ唯一、一度も負けをしらないソーシェットは北方に退かなくてはならなかった。1814年3月、彼はフローヴィア・リヴァーで軍を強化し、彼の兵士らによってカルマンソ城を爆破させた。同じ年の4月、ナポレオンは敗北し、5月に、独立戦争は終わった。
Castell de Quermançó